死学thanatology,death study
―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理
の3回目
1回目は
死学 ―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理(1)―遺体に対する考察
死学―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理(3)
2)サナトロジー事始め
(1)死学
A・デーケンが「死生学」と呼んだのは、欧米で言う「サナトロジー(thanatology)」であり、ギリシア語のタナトス(死)を表す語からきている。
英語ではdeath studyとなる。
言うならば「死に関することについての学問、研究」である。
デーケンは「死について学ぶことは、そのまま死までの生き方を考えること」という主張に基づいて名づけたことによる。
デーケンは同様にdeath education(死についての教育)も「死の準備教育」と名づけており、この2つの用語はデーケンによって殆ど同じ分野、位置づけをもっている。
死を他人事として考えるのではなく、自らのこととして考える、という基本的態度を言うならば正しい。
だがもともと生と死は分かたれるものではないが、死が人の死であることによってもたらされるさまざまな問題を考えるには「死」を主題とすることに逡巡する、ためらう必要はないであろう。
死を学ぶことにデーケンは一定の価値観を置くよう提唱しているが、あえて特定の価値観を設定することは学問分野の客観性を危うくする事態もあるのではないか。
本来「死」は生と分かちがたくあるのであるから、「死生」とあえて結びつけなければ論じられないとするのは死への偏見を助長しかねない、と危惧する。
(2)死学の領域
死学が最初に主としてテーマとしたのは、
終末期医療(terminal care)における生の質(クオリティ・オブ・ライフ Quality of Life, QOL)、尊厳死と延命措置、緩和ケア(ホスピス hospice)、情報の開示と同意(インフォームド・コンセント、informed consent)、患者およびその家族の心のケア、
さらには
死別に基づく遺族ケアBereavement Care、グリーフ(死別による悲嘆grief)である。
加えて
看取りと葬送が文化人類学的、民俗学的背景、宗教的社会的背景の考察からくる死生観、死と法制の問題も包含する。
また、法医学、遺体の死後変化およびエンバーミングという遺体の科学的研究・技術も含む。遺体からの感染症を防御する公衆衛生も課題である。
また、死という問題がもつ種類、子どもの死、災害・事故死、戦争死、自死が与える影響とそのサポート、死がもつ側面(一人称の死、二人称の死、三人称の死)における位相の相違も大きな問題となる。
死は家族の変容や超高齢社会の到来、あるいは貧困、感染症とも深く関係してくる。
死がもつ人間的、社会的、宗教的、文化的、科学的側面が全て考察・研究の対象となる。
死が、生命と分かつことなく生命の問題と密接に関係してくることから、近年、終末期医療における問題以外に脳死・臓器移植、遺伝子診断、代理母等の問題、さらには遺伝子組み換え作物による遺伝子汚染など医学分野も超えた生物学におよぶバイオエシックス(bioethics。生命倫理)の課題としても提起されている。
死学というのは、その存在自体が研究においては多分野との学際的なものにならざるを得ないものとしてある。
だが他分野と大きく異なるのは、
個別の固有の人の死を人間的に、言うならば感性全体で受け止めることをあくまで原点としてなされることである。
法制度とも深く関係するが、その死者、その家族に視点を合わせ、ときには倫理的評価から外れて寄り添うことが要求される分野である。
これが他の研究と大きく一線を画すものとなっている。
もとより呪術的、非科学的であることは排されるのだが、死と呪術が歴史的・文化人類学的に深く関係してきたものであるから、何に死にゆく人を家族が託す、あるいは、託さざるを得ないのかを、温かく、同じ視点に立って考察する。
(3)死学の歴史
人類のみならずあらゆる地球上の生物は死ぬことを運命づけられている。
デーケンによるならば「人間の死亡率は100%」である。
だが、それぞれの死は同一ではなく固有なものである。
この固有な死に寄り添うのが死学の基本であり、原点である。
私が言う「死学」とデーケンが言う「死生学」や島園進(上智大学教授・宗教学)が言う「死生学death and life study」との違いについて、ここでは先ほど述べた以上には言及しない。
また何と呼ぶかはそれほど重要ではない。
※過去に私は島薗批判を展開している。島薗が欧米のdeath studiesに対し、自分が提唱するdeath and life studiesが優れているかのような論を展開したからだ。しかし当時の島薗のプロジェクトはlifeを入れることで製薬会社当からの寄附は獲得したが、研究成果として一体何を提示できたというのか、極めて疑問である。用語の目新しさだけでは実態は変わらない。
Thanatology,death studyが問われるようになったのはそれほど昔ではない。
グリーフワークの元となった「モーニングワーク」という語を創唱したのはオーストリアの精神分析者ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856―1939)である。
彼は、最初の世界規模の戦争で約2百万人の死者を出した第一次大戦を契機として研究を進めた。
さらに死を巡る研究は、主として第二次世界大戦後、特に朝鮮戦争、ベトナム戦争の帰還兵の精神疾患の研究が促進した面がある。
その地平が開いた舞台で今死に関する学問、研究は開花したという背景がある。
(4)死学の基本文献
死学について詳述することは今回は避け、自分で勉強を進めるための図書を紹介する。
以下、日本語または日本語に翻訳されているthanatologyに関する私の推薦図書である。
初出の年代順で、同一著者からは1点とした。(日本人に対する理解を含め選んだ。)
・A・ファン・ヘネップ『通過儀礼』1909(弘文堂)
・G・フロイト「喪とメランコリー」1917(『人はなぜ戦争をするか』光文社古典新訳文庫所収)
・E・リンデマン「悲嘆―症候と処置」1944(フルトン編『デス・エデュケーション』現代出版所収)
・G・ゴーラー「死のポルノグラフィー」1955(『死と悲しみの社会学』ヨルダン社所収)
・Ⅴ・ジャンケレヴィッチ『死』1966(みすず書房)
・E・キュー・ブラ―・ロス『死ぬ瞬間』1969(中公文庫)
・C・M・パークス『死別─遺された人たちを支えるために─』1972(メディカ出版)
・E・S・シュナイドマン『死にゆく時―そして残されるもの』1973(誠信書房)
・圭室諦成『葬式仏教』1976(大法輪閣)
・柏木哲夫『病める心からの解放』1976(いのちのことば社)
・P・アリエス『死を前にした人間』1977(みすず書房)
・P・メトカーフ、R・ハンティントン『死の儀礼―葬送習俗の人類学的研究』1979、1991(未来社)
・小此木啓吾『対象喪失』1979(中公新書)
・J・W・ウォーデン『グリーフカウンセリング』1982、1991(川島書店)
・石山昱夫『法医学への招待』1991(筑摩書房)
・J・ボウカ―『死の比較宗教学』1991(玉川大学出版部)
・J・L・ハーマン『心的外傷と回復』1992(みすず書房)
・五来重『葬と供養』1992(東方出版)
・野田正彰『喪の途上にて─大事故遺族の悲哀の研究』1992(岩波書店)
・波平恵美子「弔い―死者儀礼に表現される死の観念」1993(岩波書店講座『死の科学と宗教』所収)
・S・B・ヌーランド『人間らしい死に方』1993(河出書房新社)
・柳田健一『死にかたがわからない』1994(東京書籍)
・星野一正『死の尊厳』1995(思文閣)
・A・デーケン『死とどう向き合うか』1996(NHK出版)
・碑文谷創『葬儀概論』1996、2003、2011,2017(元:表現文化社、現:葬祭ディレクター技能審査協会)
・小松義彦『死は共鳴する』1996(勁草書房)
・柳田邦男「私の場合、その自己分析」1997(『〈突然の死〉とグリーフケア』所収、春秋社)
これに続いて「遺体論」を展開するつもりであったが、少し現実的に「遺体」を考えよう、ということで「遺体管理の現状」ということを次回から数回に分けて展開する。最後に「遺体論」を展開する予定。