古墳から現代まで墓諸相

■またもや無謀なことをやっちまった

2月26日に日比谷カレッジで「民衆にとっての『墓』の変遷」というタイトルで90分で古代から現代までの墓の変遷について話すという、まさに無謀な試みをした。
https://hajime-himonya.com/?p=1849

 学生時代、大学は異にしたが、知り合った友人が発行している会員向け月刊の新聞に依頼されて2016年に寄稿したことがあった。
またその友人から「墓について書いてくれ」という依頼があった。
字数は2,400字(400字×4枚)
ちょうど大阪府の大仙陵(大山陵、仁徳天皇陵)を含む百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録のことが報じられいた時であったので、そこから書き始め、現代まで書く、というまたもや無茶苦茶なことをしてしまった。

それのおおよそが画像添付したものである。

あまりに無謀な試みなので、タイトルは付けずに出稿した。
このタイトルは編集部が付けてくれたものである。

 その原稿を以下転載する。

◎古墳から現代まで墓諸相―変化する墓 変わらぬ墓への想い

■百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録勧告

2019(令和1)年5月、イコモス(ユネスコ世界遺産登録の諮問機関)が「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録を勧告した。
大阪府の堺市、羽曳野市、藤井寺市に展開する49基の古墳群。全長400メートルを超える世界最大規模の大仙陵(大山陵、仁徳天皇陵)が含まれている。

古墳は東アジア一帯に見られる豪族の巨大墳墓。
日本では3世紀から7世紀まで、大小16万基が造営されている。

この古墳のイメージが強いためだろうか、「古来、日本人は墓の築造に熱心だった」といわれる。
だが、大仙陵は5世紀のもの。7世紀(飛鳥)の大化の改新で薄葬令が出され、厚葬である古墳は排された。
以降12世紀の平安時代に奥州藤原氏による金色堂が現れるまで、墓では目立った動きは見られない。

■人類史と共にある墓の歴史

日本でも1万3千年前の遺跡から土坑墓(土葬された墓)とおぼしきものが発見されている。
また、紀元前200年~紀元後200年の400年間の弥生時代の遺跡からは多数の土坑墓、甕棺墓が発見されている。
したがって「ハカ」そのものの歴史は人類史と共にある、といってもよい。

しかし、その「ハカ」が人間にとってどういうものであるかは必ずしも明確ではない。
古墳は人類史では例外に属する。
この世に権威、名誉、勢力がある以上は死者の顕彰は避けえないだろうが、それが「墓」のもつ意味として一般化することはできないだろう。

■強いられた埋葬と死者の記念

人間のいのちは有限である以上、死は宿命づけられている。
今「人生100年時代」という言葉が躍っている。
しかし、つい100年前までの日本人の平均寿命は4050年である。
人類史でいえば人間の生は常に死と背中合わせであった。
人間は、災害、飢餓、戦争、病気、事故といったリスクに極めて弱い存在である。

人は死亡すると1~2時間後から腐敗を開始する。
肌は乾燥し、臭いを発し、硬直し、数日にして解体を開始する。
したがって人は死亡すると慌ただしく弔われ、数日後には土中に深く埋葬されるか、人家から隔たった地に置かれて風葬された。
近代的な公衆衛生の知識はないものの、遺体は死の連鎖を招く危険な存在であり恐怖の対象とされたからである。

当然にも死者を悼む深い感情はあったろう。
死者の弔いと葬りは複雑な人々の想いの中で強いられた作業としてもあった。

墓とは死者が埋葬を強いられた場所であり、そして死者を覚えるための装置としてあった。

ただ、近代に至るまで、戦禍や災害死の場合の死者は、弔われることなく処分、遺棄された。

■民衆の墓

日本で今の墳墓に類似したものは鎌倉時代以降に現れた。
僧侶、貴族、武士の五輪塔、宝篋印塔、板碑がほぼ最初のものである。
それ以前は木製墓標だったためか朽ちて現存していない。

権力、名声をもたない民衆が墓地の共有を許され、それぞれの墓を持つことを公認されたのは、16世紀、農業が生産力を高めた室町後期の戦国時代以降のことである。

墓石文化が発達するのは江戸時代。
江戸後期には民衆の半数が石の墓を持つに至ったようだ。
だが、その墓石は現在とは比較にならないほど小さく3060㎝程度のものが多く、個人墓が多数派であった。

■火葬と墓、そして墓の変化

今でこそ日本の火葬率は統計上100%だが、明治中期までは大都市部と真宗の影響力の強い地域を除き火葬は少数派で土葬が多かった。
火葬率が6割を超えたのは戦後の1960(昭和35)年であった。

1990(平成2)年前後から跡継ぎ不要の永代供養墓、合葬墓、散骨、樹木葬が誕生。日本の墓は大きな変革期に入った。

それまでの標準とされたのは「〇〇家」と墓石に家名が刻印されたもので、複数の遺骨が同じ場所に納められ、「家墓」という。

家墓の歴史はそれほど長くない。
1896(明治29)年に家制度を基本とする明治民法が施行され、1897(明治30)年に、たびたびのコレラ等の大流行による大量死を契機に、伝染病予防法が施行されて政府が公衆衛生の観点から火葬推進に舵を切ったことによる。

戦後は民法が変わり、核家族が増加。戦後高度経済成長で郡部から都市部へと人口が大移動することで墓は大きく変わった。

1970(昭和45)年以降は都市部で墓ブームが発生、墓石のブランド化も進んだ。

1980(昭和55)年頃からは核家族がゆえの家名、墓存続リスクが高まったことが現在の墓システムの変革期の背景にある。

1995(平成7)年頃からは「お墓の引越し」が、2010(平成22)年からは「墓ジマイ」が、と「墓の整理」が話題になった。
墓の放置も増加していて、地方の墓地はおおむね約2割の無管理状態の墓を抱えている。

しかし、これらは世代の更新と共にいつの時代にも起きてきたことである。
情報が拡散される時代だからこそ話題、ニュースになっている、と見ることもできる。

今もなお、日本人の7~8割は年1回以上の墓参りを欠かさない。
多くのリスクを抱えながらも「墓」への想いが依然として強いのは、ある意味では驚くべきことなのかもしれない。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「古墳から現代まで墓諸相」への1件のフィードバック

  1. 墓ジマイですか… 私もこの業界に入るまでは法事や墓参りは両親に任せきりで、墓参りの線香は何本?から始まり 墓地花のボリュウームは?お寺さんへのお布施はいくら?直近の法事はいつで何法要?など全く分からないことばかりでした。葬儀屋さんになって25年、ようやくそんなこんなが分かってきました。そして、いかに沢山の葬儀法事のハウツー本やマナー本が有ることか!そして、それらは全くと言ってよいほど地域による違いを無視し「これはこうしましょう、この場合はこれを用意して!」等の事柄をさも著者が一番正しいからこれに従いなさいみたいな上から目線で物申し、それにまんまとのせられた これもまた何もわからないテレビ局が葬儀マナー特集なる番組を手掛ける始末。おいおい、お葬式のハウツーなんか無いよ!亡き人が天国に行けますように、浄土往生出来ますように…って気持ちがあれば良いんです。お香典のお札の入れ方や上書きを気にする前に、故人に思いを馳せましょう。間違ってますか?
    菊川のエッチャンより

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