私の通っていた「精神科」が別館から本館の4階のつきあたりに移動する際に「メンタルヘルス科」と名前も変わった。 外科や内科は人も充満しているし、けっこう騒々しい。看護師や医師も駆けずり回っている。 だが「メンタルヘルス科」がある一角はいつも静かだ。 移動して変わったのは、診察室への呼び出しが名前で呼ばれず、受付番号がポンという音で待合室の画面に表示されるようになったことだ。 隣の、腕に包帯を巻いて待っている女性は、父親とおぼしき男性と一緒だった。 「3度目だからな…」と父親がぼそっと言う。 娘は「心配かけて... 続きを読む
死者との関係づけ―戒名、布施問題の多角的アプローチ②
戒名、布施問題の多角的アプローチ② 死者との関係づけ ~仏教葬儀でなぜ「授戒」が重視されたか?(下) 日本の仏教葬儀の内部に少し立ち入って見てみることにしよう。 ※誤解してほしくないのは、ここで教理を語っているのではないこと。儀礼が民衆の心性とどう関係していたのか、その全部ではなく、一端を探る試みだ、ということである。一つの見方を提示するもので、あるべき方向を提示しているわけではない。しかし、これはこれで私の模索の一つの結果を提示している。 「導師」に期待されているもの 死後の世界に橋渡しする存在が導師で... 続きを読む
仏教葬儀で「授戒」がなぜ重視されたか?上-戒名、布施問題の多角的アプローチ①
「僧侶派遣」の話題も賑々しい。少し基本的に戒名、布施問題をさまざまな角度で考えてみたい。過去に書いたものも改めて取り上げていることを予めお断りする。 戒名、布施問題の多角的アプローチ第1回 仏教葬儀でなぜ「授戒」が重視されたか?(上) イニシエーション 20世紀の初め、アルノルト・ファン・ヘネップは『通過儀礼』を著し、「あるグループから他のグループへ移るには、われわれの社会における特定の儀礼──洗礼、叙品式など──にみられるのと同様な通過の際の特別な様相を呈する」と看破した。 彼は、人生の「区切りの一つ... 続きを読む
遺族にとっての別れ、友人・知人にとっての別れ
最近、2つの葬儀に出た。一つは知人の配偶者の、もう一つは知人の葬儀であった。 2つの葬儀に共通していたのは、出棺の前の最後のお別れ(お別れの儀)に充分な時間をとっていたことであった。 参列者が一人ひとり、思い思いに遺体と対面して別れを告げていた。一人ひとりが故人とそれぞれの関係を結んでいたのだろう。その別れの仕方は実に多様であった。 直立して顔を見て深く合掌する人、撫でるように顔を触る人、立ち去り難い表情を見せる人、すがりつきたい想いを堪えて立ち竦む人…。 ほんとうにさまざまな別れがそこにはあった。 その... 続きを読む
死の授業―個から見た死と葬送(14)
死の授業 「健全な時代」と言うべきなのだろうか。 私たちの青春時代には、背中にベタッと死が張りついた感覚で生きていたものだ。 だが、目の前に座る学生たちの目には、珍しいことを見るような好奇心、あるいは理由もない怖れの感覚が支配しているように見えた。 そもそも授業内容に関心がなく、席に着くなり堂々と机の上に両手と頭を落として寝だす無関心な者もいる。 初めて耳にすることなのだろう。死というのは年齢・性別・健康かどうかに関係なく突然侵入してくることがあること、高齢者の終末期の状況、人が死ぬと腐敗すること、昔は乳... 続きを読む