2011年の3月、東日本大震災について過去書いた原稿を少しずつ紹介する。 3.11 突然、激しく床が揺れた。 建物全体がゆっくり大きく横に揺れる。慌てて本棚を支える。本棚から本がドサドサと落ちる。でもそれにかまっている余裕はなかった。 経験したことのない揺れにどうすることもできず、ただ「凄い!」「危ない!」と言うだけ。 交通機関は全て停止した。 しかし、その東京での私の驚きは、後に次第に判明する事態に比べるとたわいもない出来事であった。 宮城県の北部、岩手県と接する栗原市が震度7であるとテレビは伝えていた... 続きを読む
葬祭仏教の誕生―葬祭仏教の史的展開(1)
戒名、布施の問題を取り上げてきたが、そもそも歴史的に「葬祭仏教」とはどう展開されたかについて数回に分けて書く。 葬祭仏教の誕生 ■「葬式仏教」の誕生 すぐれて「日本教」とでもいうべき「生活仏教」の形成に大きく影響を与えたのが「葬式仏教」であった。 寺は室町時代後期の「近世」の誕生と共に民衆、地域社会に入り込む。仏教は6世紀に日本に紹介されたとはいえ、近世以前は、基本は貴族、そして武家のための宗教であり、民衆の宗教ではなかった。葬祭仏教化することによって仏教は民衆社会に土着し、外来仏教であることをやめたの... 続きを読む
三回忌―個から見た死と葬送(20)
三回忌 三回忌だという。 つい2カ月ほど前の出来事のような、はたまた夢の中の出来事であったかのような…。 現実感がまるでないのだ。 心を裂かれた傷みはまだ癒えることはない。 でも、癒える必要はないのだ、と思う。 この傷みこそあなたの残り香なのだから。 この傷みがなくなったら、あなたが私の手の届かない先に行ってしまったことになるから。 どうか、私の心を傷ませ続けてください。 「時間が解決してくれる。いや時間しか解決してくれない」と人は言う。 それは何と残酷なことだろう。 時間よ、止まってほしい。 かろうじ... 続きを読む
死の自己決定権―死に対する自由意思の限界(下)
本稿は「現代の死―死に対する自由意思の限界(上)」 https://hajime-himonya.com/?p=1510 の後編。 死の自己決定権 ■「死の自己決定権」の文脈 生きる上での「自己決定権」というのは個人の基本的人権として認められている。これは「死の自己決定権」に及ぶのか、及ぶとすればどこまでか、が議論としてある。 憲法第11条から第14条には基本的人権が定められ、特に第13条は重要である。 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利について... 続きを読む
現代の死―死に対する自由意思の限界(上)
現代の死 死に対する自由意思の限界(上) 死について「本人の自由意思」がキーワードになっている。 この問題については数回取り上げているが、キリスト教関係の雑誌で私が大学院時代から書かせていただいた『福音と世界』2015年3月号に書かせていただいた論稿を掲載する。 ※内容は近年書いたものと重複することがあることをお断りしておく。 ■はじめに―個人的なこと 最初に個人的なことを書く。 筆者の姉は、13年6月に大腸がんでステージⅣであることを医師から宣告され、11か月後の翌年4月、72歳で死亡した... 続きを読む