このブログ「碑文谷創のはざまの日々」をココログに掲載始めたのが2005年12月。
ちょうど11年になる。
正確にはその前ヤフーで書いていた時期がある。
ココログでは記事数は373本でしかない。
1年にすると約34記事だから月に2.8本、約3本というルーズさである。
半年以上手をつけなかった時期もある。
アクセス記録を見ていると、1年前以前の記事がまだ結構読まれていることに気づく。
古い記事が読まれるということは、検索キーワードに合致しやすい、ということが多いせいであろう。
その意味では、私の書いた記事の良さを反映するものではない。
その一例をランダムに以下に示す。
2014年1月20日
青木新門『それからの納棺夫日記』を読んだ
https://hajime-himonya.com/?p=1418
青木新門さんは『納棺夫日記』で有名。
だが、この本も必読の本である。
新門さんは、いわば私の恩師である。
だいぶ書いているものは違うが。
新門さんは今ブログ「新門日記」を毎日書いている。
私には真似できない真摯さにはおそれいる。10年年上であるが、筆力に衰えがない。
2011年10月7日
学者は手を抜くな 松尾剛次『葬式仏教の誕生』
https://hajime-himonya.com/?p=1364
これは松尾さんに悪いことをした。
中世仏教専門の良書だが、冒頭に現代のことについて書いたのだが、エンバーミングの情報が古い、カトリック理解がおかしい等、と私が嚙みついた。
松尾さんからもコメントをいただき、それについてまた書いたのが
https://hajime-himonya.com/?p=1365
松尾さんは誠実な方で再版時に指摘した分を修正され、贈ってくださった。
真言宗の僧侶の方のコメント、私の反論を含めて読むことができる。
当時の私は「人間の現実を知らず論じる学者」に対して腹を立てていたものだから、松尾さんに矛先が向いて迷惑をかけた。
2008年10月19日
樹木葬10周年で一関へ
日本の樹木葬の一号は1999年の岩手県一関市にある現在は知勝院が経営する樹木葬墓地。
現在では墓地の一画に木を植え、その下に遺骨を埋蔵するスタイルを「樹木葬」、「樹林葬」と言うことが多い。
一関の樹木葬は、一帯が森であり、その周辺の河川を含めた自然保護を目的とした理念もスケールの大きいものである点が現在流行りの樹木葬とは異なる。
こんなに商用の樹木葬、樹林葬が乱立するなら商標登録しておくべきだった、と後悔する。
創設した先住(先の住職)の千坂げんぽうさんは私の子ども時代の同級生という間柄なものだから、樹木葬墓地の約款の原型は私が書いている。
また、断わりなしに真似をしている墓地業者も多い。
疲弊する被災地
https://hajime-himonya.com/?p=1334
東日本大震災は途方もない衝撃だった。
震災発生直後から、情報収集、現地との連絡等で気持ちが急き、極めて不安定だったことを思い起こす。
現地の人たちはほんとうによくやった。
現地の葬祭業者は遺体の世話に関しては自分たちの後には誰もいない、と自覚し、逃げずに責務を全うした。
この時期のブログは彼らへのエールでもあった。
震災はまだ終結していない。
東日本大震災についてはブログ以外でもずいぶんと書いた。
先日(12月19日)に書いた
の中で
東京都行政書士会の会報『Puente』vol.16が
「特集 少子高齢社会の‘別れ‘を考える~日本人の死生観は変わったか~」
を取り上げていて、そこに寄稿した。
これが東京行政書士会のホームページからダウンロードして読める。
私が書いたのは第2部に掲載されている。
テーマは、いつもの「変わりゆく葬送事情」
に比較的に詳しく震災について書いている。
2013年8月22日
「式中初七日」てなんだ
https://hajime-himonya.com/?p=1409
2010年前後から急激に都市部で普及した「式中初七日」には怒った。
仏教葬儀の形骸化を象徴する出来事だった。
2014年4月25日
https://hajime-himonya.com/?p=1421
2年前に72歳でがんで死亡した姉の最期の記録。
「記録」というのは親戚や知人に送ったメール等をまとめて記載したものであるからだ。
今話題になっていることではない。
極めて私的な出来事なのに読み継がれているのが不思議だ。